岡崎体育的『MUSIC VIDEO』論 その2
こちら。
まず岡崎体育の元のMVを貼ったうえで、さっそく続きを見ていこう。
その1はこちらから。
7.モノクロの映像
モノクローム、いわゆるモノクロにすることによって、余計な情報は与えず曲の良さだけを伝える効果がある。そのためモノクロのMVには比較的名曲が多い。比較的新しいバンドのモノクロのMVも多く存在してはいるが、ここでは「モノクロのMVには名曲が多い」という理論を説明するため、少し年代を遡った曲たちをピックアップする。
山崎まさよし / One more time,One more chance
山崎まさよしの名曲といえばこの曲である。モノクロは意図的に古い映像である演出をできるが、この曲が発売されたのは1997年のことであり、まだ22年ほどしか経っていない。いわば白黒演出の先駆けに近い。
モノクロのMVと言えば、これを思い浮かべる人も多いのではないだろうか。紛うことなき名曲であり、スピッツにとって最大のヒットソングだった。ちなみにこの曲は1995年に発売された。
エレファントカシマシからはこちらの曲を。ボーカルの宮本さんの一人歌うシーンがモノクロになっている。ちなみにこの曲も1997年にリリースされた。
清竜人の曲で一番有名な曲と言えばこの曲になるだろう。モノクロームの映像による情報量の少なさがとても良い効果を与えている。前述のエレファントカシマシのMVにとても影響を受けたのではないだろうかと思える、そっくりなMV。
他にもモノクロMVはいろいろあるけれど、あえてこれを選んだのは個人的な趣味である。ただのモノクロの映像の中にも、スポットライトや全体の光の当て方によって、変化をつけているのがお分かりいただけるだろうか。この映像の中で使われた色は、白と黒を除いて青と赤だけであり、それが白黒の映像の中にポンと現れることでとても強いアクセントになる。
他にもモノクロMVは数えきれないほどあるので、それだけに注目して見比べてみるのも面白いだろう。
8.淡い映像
淡い映像が見ている人に与える感情は「なつかしさ」である。
それには2種類の撮り方があり、1つは一般的なアフターエフェクトなどの動画編集ソフトによって後付けされる撮り方、もう1つはあまり使われないがオールドレンズなどを使うことによって最初から淡い映像に仕上げてしまう方法だ。大抵の場合は前者だろう。
YeYe - ゆらゆら(Official Music Video)
まさに淡い映像である。淡い映像を用いたMVはストーリー性があるMVに多い。
淡くて、不思議な世界観を表現しているMVといえばこちらの安藤裕子さんのMVだ。
不穏な映像もあるのに、曲の安心感が相反して存在している。YeYeのMVに比べ、ストーリー性があまりなく、その分カット割りが多くなっている。落ち着きがないといえばそれまでだが、その分テンポの良さが魅力的に感じられる。
淡さは激しさとは結び付かないため、こういった内容的に落ち着いた楽曲が向いている。スローモーションとも相性がいい。淡い映像と学校の組み合わせは無敵である。
淡い映像では女の子が可愛く見える。
9.わざとザラついた映像
全体的に淡い映像が使われているが、その中で回想シーンを用いる時に使いがちなのはこの「ザラついた映像」である。もっぱら8mmフィルム風のエフェクトをつけることが多い。その時に重要なのは3分6秒あたりのシーンで見られるような光漏れ、いわゆるライトリークである。これがあるのと無いのとでは印象が結構変わる。ライトリークが存在するのはフィルムだけで、淡い映像にはそれらは出てこない。
フィルム写真のスライドショー、淡い映像、スローモーション、これらの映像編集を効果的に配置すると、曲の世界観をとても上手に表現できる。
1分52秒あたりのシーンで、目の前を標識が素早く過ぎてゆくが、この画面下側の方が先に通りすぎるのはiPhoneならではの映像であり、これはアプリによる撮影だと考えられる。
星野源 - くせのうた【Music Video】/ Gen Hoshino - Kuse no Uta
星野源からはこちらの曲。ちなみにこの曲は本当の8mmフィルムカメラを使って撮影されている。撮影はあのKANA-BOONの『ないものねだり』やチャットモンチーの『いたちごっこ』のMVを担当した山岸聖太さんによるものだ。
こちらのMVでは、8mmフィルムの映像にアニメーションが追加され、他とは一味違う演出がなされている。この点がやはり、セミプロと真似事にはならないプロの違いなのではないだろうか。
10.無意味に分身するよね
分身するのは簡単だ。ブルーバックやグリーンバックなどと呼ばれる背景の前に立つだけでいい。ちなみに本当の名前はクロマキー合成である。
無意味に分身するMV、これは案外見つけるのが大変だった。「あるある」っぽいようで意外と「あるある」ではないかもしれないが、それっぽい映像はいくつかあったので、いくつか挙げてみる。
BRADIO-Flyers【TVアニメ「デス・パレード」OP曲】(OFFICIAL VIDEO)
その分身しているシーンは44秒あたりから。一人だけより何人もいた方がコミカルな映像になり、見ている人も楽しめる。そういった効果がある。
Earth, Wind & Fire - September (Official Music Video)
これは分身ではないが、BRADIO-Flyers-のMVはこれを彷彿とさせる。
3分22秒あたりのシーンでハルカトミユキのミユキさんが分身している。分身することで、奇妙さも生まれる。
これは分身ではないが、大量の同じ格好をした人を使ったMVという点では同じだ。これはほとんどCGを使っていない。アルビノの人とこの大量の人。妙な心地を覚えることだろう。
続きは「その3」で。
岡崎体育的『MUSIC VIDEO』論 その1
突然だが、お風呂に入っているとき、急に岡崎体育の『MUSIC VIDEO』が脳裏をよぎることとかあるだろう。いや、ないか。
そう、あのMUSIC VIDEOあるあるをMUSIC VIDEOという曲の中に詰め込み、それをそのままMUSIC VIDEOとしてMUSIC VIDEOのMUSIC VIDEOを公開したことで話題になったあの岡崎体育のMUSIC VIDEOのMUSIC VIDEOである。でも今回スポットを当てるのは、彼のMUSIC VIDEOのMUSIC VIDEOではなく、そのMUSIC VIDEOのもとになったMUSIC VIDEOという曲の方だ。
ふざけるのもそこそこにして、まじめに解説しよう。
まずはこちらを。
この曲はMVあるあるを詰め込んだ曲だが、みんな「あ~こういうMVね、あるあるw」と思いつつ、それが実際誰の何のMVだったか、本当は忘れているのではないだろうか。
そこで今回は、この歌詞を逐一拾い「きっとこのMVのことを歌っているんだな」という風に確認しながら、それぞれに当てはまるMVを紹介・解説していこうと思う。
1.カメラ目線で歩きながら歌う
これこそMVあるあるだ。鉄板だけど一番安定感がある演出と言っても過言ではない。気にしていないだけで、結構多くのMVにこの演出が使われている。それは無駄な費用がかからないからである。
3分18秒あたりからが例のシーン。もう完全にこれではないだろうか。
岡崎体育はクールに歌っていて、ボーカルの山口さんははっちゃけているけども、よく見るとこの商店街の明かりがほとんど同じに見える。
同じように「歩く」というテーマに則ったもので挙げるなら、きのこ帝国の『クロノスタシス』は外せないだろう。このMVなら1分44秒あたりからが歩きながら歌うシーン。カメラ目線ではないところもあるけども、岡崎体育の曲を聴いてこれを思い浮かべる人も少なからずいると思う。
ちなみにきのこ帝国は4ピースバンドだが、このMVの中では3分33秒あたりですれ違っている横の3人がメンバーである。
他にも数ある「カメラ目線歩行歌唱MV」の中でこれをピックアップしたのは完全な個人的趣味である。サカナクションやtricotのMVのようにいくつものシーンを切り貼りしたものだと、それだけ編集の手間や撮影時間が長引いて大変である。でも結構見ごたえが出てくる。
Charisma.com「#hashdark」(short edit ver.)
アーティストは歩き続けなければならないし、カメラマンは常に後ろ歩きを強いられ、案外容易ではない撮影でもある。
2.急に横からメンバー出てくる
バンドなどのグループだと、(カメラ目線で)歩きながら歌うMVの中で、こういう演出はよくある。バンドなのにボーカルが一人で出演するのは、まず気まずい。
ONE OK ROCK - C.h.a.o.s.m.y.t.h. [Official Music Video]
2分19秒あたりからメンバーが出てくる。4分ちょうどあたりから演奏シーンが入るが、ここはもちろん電源など引いていない。
いつメンバー出てくるんだろう、って思っていたら最初からみんな出ちゃったパターンがこれ。どうでもいいけど、すごく寒そう。
One Direction - You & I (Official Video)
2分46秒あたりからみんなが出てくる。それまでは顔と体格が微妙に切り替わるという見てて変な心地になる演出。海外でも同じようなことはするが、CG技術などがすごいから安っぽく仕上がらない。
3.突然カメラを手で隠して次のカットで場所移動している
結構高度なテクニックが求められるこの演出。映画などでは「場面転換」などと呼ばれる。オーバーラップや暗転など容易な手段もある中で、あえてこの「手で隠す」のは最初から最後までの流れをスムーズに見せるためだ。もちろん手で隠すのは安っぽいから大体は他のいろんな手を使う。「手」だけに。
1分23秒あたりに最初の場面転換。ここでは女性の背中がキーとなる。2分43秒あたりでもボーカルのおかもとさんの手によってスパッと切り替わる。
こういった視聴者が予期せぬ場面転換は、メリハリを与え、見ている人に飽きさせないというメリットがある。何より、このMVにおいては3本の動画がうまく繋げられているということで、撮る側としては一続きで撮る必要はなく、3つの場所に分けて撮ればいいという負担軽減にもなっている。決して「逃げ」ではない。
手で隠すことは、何も場所を移動するためだけではない。最初の切り替えは1分10秒のポスターに近づくところ。このシーンでは場所は変わっていないが、ザ・モローンズの2人と他のエキストラの方々を下の階へと移動させるためにこのような切り替えが行われている。同じように3分27秒のところでも、壁に近づいてシーンを繋げ、エキストラを瞬時に移動させている。
2分20秒で、藤岡みなみさんが手をカメラにかぶせるシーンがあるが、それが岡崎体育的な場面転換である。
4.倍速になって
映像を倍速にすることのメリットは、可愛らしさとコミカルな映像を生み出すことだ。倍速編集はアイドル系のMVに多い。
このMVの中では、移動の最中を倍速にしているが、これによってとても楽しそうな雰囲気を生み出し、見る人も楽しい気持ちにさせる。
周りの様子は倍速なのに歌は普通の速さで、それでいて口も同じように動いているという演出がこのMVでは用いられている。これは簡単なことで、撮るときは半分の速度で音楽を流し、それを歌わせ、あとで本来の曲の速さになるように映像を倍速処理するのだ。そうして作られたのがこのMVで、試しに0.5倍速で見てみてほしい。きっと植田さんの動きが普通に見えると思う。
5.スローになって
スロー映像。スロー再生というのは、実に多くのMVに使われている技術であり、この映像の良い点は、編集する側はスローにすることで元々の映像の尺をはるかに伸ばせることだ。ただ問題は、撮っている真っ最中は一瞬で過ぎるため、実際にスローにしてみないとどういう風に映っているのか分かりにくい点がある。
スローにすることで落ちゆく物がとてもきれいに見える。スローは派手であれば派手であるほど、見ごたえがあるし面白い。どんなものでも新鮮味がある。
ELLEGARDEN「Salamander」Music Video
スローにしたMVで有名なこの曲も、曲の世界観を表現するのにスロー再生は一役買っている。スローにすることで激しさは抑えられるが、その分躍動感が生まれる。
特に1分50秒からのシンバルのうねりと震えが素晴らしい。肉眼ではほぼ見れない映像である。
OK Go – The One Moment – Official Video
スローモーションのMVで最も撮影時間が短いものがこちらのOK GoのThe One Momentで、それはわずかたったの4.2秒間の映像である。スローMV界では間違いなく殿堂入りを果たしている作品と言える。
Lorn - Acid Rain (Official Music Video)
「倍速になって」での植田真梨恵さんのMVは、撮影した映像を2倍速にしたものだと書いたが、LornのAcid RainのMVはそれの逆である。この映像はもともと曲を1.5倍速で流してそれに合わせて踊り、編集の時に曲を元の速さに戻したものである。
これも説明するより、1.5倍速で見てもらった方が言っていることが分かりやすい。
6.コマ撮りになっていく
コマ撮りは、今まで紹介した上のMVの演出の中で、もっとも演者・撮影者の双方に負担のかかる演出方法である。動画としてワンカットで撮るのではなく、何枚も撮った写真を繋げるようにして映像を作り出す。その大変さゆえに、見た人は「すごい」と思わざるを得ないし、アーティストなら挑戦してみたくなるものだったりする。
toe - グッドバイ PV / "Goodbye" Music Video
これが一般的なコマ撮りMV。繋がっているように撮るのは一苦労だ。
こちらも。動きをスムーズに見せようとすればするほど、コマ数が増えるため、その分大変になることが分かる。
コマ撮りはとにかくその場でいるより、動いた方が見ている方も面白い。そして多少雑でも繋げてしまえばなんとかなったりする。
ちなみにandymoriのファンの方がこのMVを完全再現したものもYouTubeにあるので、そちらも見ていただくと面白いかもしれない。
今まで上に挙げたコマ撮りMVの中でもとりわけ労力がすごそうなものが、水曜日のカンパネラの『ミツコ』のMVだ。1分12秒あたりから見ていただくと分かるだろうが、何枚もコマ撮りのように撮った写真をさらに並べながら撮るという二重のコマ撮りになっている。ただ、MV全体がコマ撮りにはなっておらず、この映像ではスローの演出も使われている。
OK Go - Obsession - Official Video
これも一応コマ撮りではある。ただ、OK Goだからもうやることなすこと「すごい」としか言いようがない。お金はきっとものすごくかかっていることだろう。
続きは「その2」で。
瞬きをしない時間のギネス記録は存在しない。
音楽を聴くのが好きなので、音楽ばっかり聴いていたら「お前死ぬぞ」って言われた。病的な音楽好きなので、僕が死んでも音楽が死なないことがうれしかった。
病名を生きる目的にするな。病気を治すことに特に意味があるのか分かりません。鬱とかそういう精神的な病をひけらかしたり、私は〜だからと話す奴はアラスカで生活してからそういうことを言ってほしい。
世の中って言葉がまずダメだと思う。世界とかそういうのも一緒。そういうことばっかり考えたり言葉を出そうとするから、3センチの段差で足をくじいたりするんだと思う。
ドーナツになぜ穴があいているのか、誰も明確に答えを出せないままなのは、ドーナツがドーナツたりえる理由の一つだと思います。
穴があいてりゃ全部ドーナツって名乗ってもいいと思う。もちろん油で揚げていることは大の大前提ではありますが。
詳しくは言えませんが、しばらく病気の治療に専念するため、色々がごちゃごちゃになると思います。
話すことは今以上にたどたどしくなると思います。約束事を断ったり、キャンセルしたりなども増えると思います。気分屋なことをまず謝罪します。みんなに出来るだけ害を与えないように振る舞うことを今は考えています。何しろ、生きていると迷惑をかけがちなので、そういったことが少なくなるよう歩いたり、話したり、黙ったりすることを考えています。
駅のホームから飛び降りないようにします。高い橋の欄干から下を覗かないようにします。崖のギリギリに立ったりしないようにします。
難しいことは断りもします。電話はひどく混乱するので、今後しばらくできません。用件だけお伝えください。LINEは気長にお待ちください。大抵いつも忘れているというよりは文章をひねり出していることが多いです。言葉は100%返ってくるとは限りません。むしろ投げたら投げっぱなしの1人キャッチボールだと思ってください。
今まで気づかないうちにたくさん迷惑や心配やその他諸々をかけていたので、それを謝ります。ごめんなさい。
そしてこれからもおそらくたくさん迷惑をかけていくので、そのことも謝ります。ごめんなさい。
病気のことは、自分で話したり考えたりすると、どうしても心がくるしくなったりしんどくなったりするので、あんまり言えません。
この病気が治るのに早くても3年はかかるそうです。到底治る気配がありません。何しろ今までずっとほったらかしで、生きてきて今ようやく気づくことができたのですから。
比較的普通のふりをしています。もうしばらくお待ちください。
映画『ひとひら』を観て。
映画『ひとひら』を観た。
吉田監督がエゴサーチをするというので「届けばいいな」と思いここに書く。
この映画を観たいと思ったきっかけは忘れた。芋生悠さんと青木柚くんというキャスティングがあったから、Twitterをフォローされていたから、たまたま学校帰りに立ち寄れる場所だったから、監督が同い年だから、とか色々あった気がする。
吉田監督が大学の授業でやったことのただの発表会といえば安っぽくなるけど、吉田さんにとっては思い入れのとても強いものだと思う。そして、僕にとっては初めての「試写会」という経験で、しかも今までテレビやスマホの画面越しに媒体を通して見ていた人にお会いする、ということも初めてだった。だから、僕にはとても忘れられない時間になった。これからしばらくは思い出して、感傷に浸っているのだろうと思う。
吉田さんにとっては、大阪で会った同学年の1人で、ただ自分の作品を観に来てくれた人たちの1人かもしれない。芋生さんだって、たくさんのファンの中にいる1人としかきっと思わないんだろうけれど、僕にとっては最高密度の時間だった。
作品について感想を書き記しておきたいのだけれど、恐れ多いのと、書いているとちっぽけで迷子になってしまうから、うまく書けない。だから思った事だけを書く。例えそれが正解じゃなくても。
芋生さんの目がよかった。僕はあの人の右目がずっと好きだ。人を殺したことがあるかどうかは目で分かる、とよく言うけれど、あの目は感情そのものになる。笑うと細くなり、怒ると殺気立って黒目がぐんぐんと小さくなる。それも殺意に近い。あの目を持っている人をほとんど見たことがない。
あの映画をいずみに見せたらどうなるだろうとずっと終わった後で考えていた。いずみは『ひとひら』を観て、笑うだろうか。キレるだろうか。泣くだろうか。
いずみはなんとなく静かに怒る気がする。いずみに「あなたがモデルなんだよ」って教えたら彼女はきっと喜びはしない。笑いはしない。くやしさで固まって、ぐっと溜めて、頭の奥で何かが切れて、いずみにとってはそういう映画になる、と思うし、そうじゃない?と芋生さんや吉田監督や町田監督たちに確認したい。
吉田監督は同級生にあたる。だからその分、自分と生きてきた年数が変わらない人間が何をどう描くのだろうか、とかそういうことが気になって仕方が無かった。吉田さんは、あの作品に今まで考えていたことを落とし込んで、放置するでもなく、映画という形を与えてどこかに置いてやろうと思ったんじゃないだろうか。そう思っていなくても、少なくともそういうことになったと思う。「さかいめについてずっと考えていた」と吉田さんが言っているの聞いて、自分と一緒だと思った。そうしてその境目を生きているのが20歳になる芋生さんで、まだ迎えていないかもしれないのが柚くんだ。だからあの空間自体が感慨深かった。この世界はこうやって会えてよかったなって思う人が増えていくシステムらしい。
映画が始まって、いずみと芋生さんがだんだんと重なってひとつになる。いずみは女がきらい、とかじゃないんだと思う。かっこいい女の人が周りにいなかっただけで、自分がいつか大人になれば女になってしまうのだろうか、とかそういうことに不安を覚えて、駅で絡まれている女やその絡んでいる男を蔑む目で見たりする。設定は中学生で、一番不安定な時期だ。もっぱら僕はいつまでも不安定だけれど、だからこそ、いずみの気持ちがくるしいほど分かる。本当は男になりたいとかじゃなくて、気持ち悪いものになっていくのが嫌なんだと思う。性別なんてくそくらえだ。
ようちゃんはひきょうだ。
そして、自分がひきょうだということをようちゃん自身もきっと分かっているんだろうと思う。すきな人にふれたい。男の子の目線。手で触ることができなくても、目で肌をなぞるところとか、そこをちゃんと描いたのがよかった。
「さわりたいって思ってたらどうする?」って言ってようちゃんは本来の自分になった。男の人からすると、あれは好きな子に言ってはいけないセリフなんだけれど、もう尽きかけた状態で、ああ言うしかない。セリフを削りに削ったらしいけど、あれはきっとどうしても残そうとしたんだろうなって思った。
ようちゃんがベンチでうなだれるいずみのスカートのポケットからそっと口紅を取る仕草。あれがとても良い。個人的な話だけれど、同い年の学校の女の子からセーラー服を着せられた経験があって、だからセーラー服のスカートにはポケットがあることも知っているし、あのようちゃんのいずみに触れまいと気遣っている指がとても分かる。
メインは芋生さんで、基本的にヒロインのいずみの視点から描かれているけれど、ちらほらと観ている人が男になれる瞬間があって、そういう意味で青木柚くんでよかったと思った。今のところ、それ以外のキャストが思い当たらない。
(よっちゃんだったかようちゃんだったか忘れたから、よっちゃんと呼ぶ)
(ようちゃんが台本通りらしく、密かに訂正した)
駅のトイレで自分と向き合ういずみのシーンが一番のお気に入りになった。
いずみの目が豹変して、もう今までのままじゃいられないのかもしれないと焦る顔、ようちゃんの言ったことに頭がまっしろになっていく顔、矛先の向けようがない怒り、どうしようもない悔しさ、信じてきたはずだったのに裏切られたんだろうか自分は、とコロコロと変わっていく。ギュンギュンと音は聞こえなくても、いずみの目はしずかに唸っていて、見ているとそう聞こえてくる気がする。芋生さんの真骨頂を見た。
僕の中でお気に入りのシーンとなったと同時に、これはきっと制作者側も本気で取り組んだんだと伝わった。映画を観続けて、このシーンを迎えるまであまり意識していなかったけれど、これは制作者たちが(とりわけ監督が)、命を削って作っている、誰も手を抜いていないと思った。
「だって美しいから」の言葉。それがあの時のいずみの答えだった。
監督は「かなしいエンディング」と言っていて、たしかに客観的に見れば悲しい終わり方だったけれど、あれを観終わった時にどこか落ち着いた自分がいて、そうかこれで終わっていくんだろうかって腑に落ちた自分がいた。あの2人は高校が一緒になるのか、一緒になったとしてもこれからも友だちでいられるのだろうか、とか色んなことを監督から訊いてみたくもあったし、どうなんだろうってファミレスのドリンクバーで議論してみたかった。
愛をひけらかしたメイキングも、特別公開の旧稿の映像も、とてもよかった。
旧稿で描こうとしているいずみたちの姿もよかったけれど、本稿の方が僕は好きだ。いずみには芯があって、旧稿のごちゃごちゃとした雑味が消えて、洗練されたなって思った。路線の問題も(僕は路線マスターじゃないけれど)、小ネタとして好きだった。
境目ってどこだろう。大人と子供って比較すれば違いはたくさん言えるけど、正解は誰も教えてくれない。きたないものに対する反発心は、やがて無垢を追い求める力になって、もがいてもがいて、勝手に苦しんでいる。多かれ少なかれ、成長が遅い奴とか溝をうまく飛び越えられない奴が必ずいて、いずみは成長が遅かったわけじゃない。ただ他人があんまり考えていなかったことがいずみにとってはとても気になることだったのかもしれない。そういう人なんだと思った。
結果的に、この映画は「なりたくないものになっていく感覚」を描いていて、それが分からない人は絶対にいるし、ましてや早く大人になりたいなって思っている奴には見てほしくない。この映画の結末なんて、ちっとも分かっちゃくれないだろうなって思うから。
ほんとはもっと書きたい事とかあるけれど、今日はここまでにする。
大好きな作品が増えたし、同い年の作る作品が観られて、僕には忘れられない瞬間だった。このときのことはきっと忘れない。ありがとう。
P.S. 芋生悠さんは遅かれ早かれきっと朝ドラに出るし、大物になった芋生ちゃん・吉田さん・くらもちさんの3人にまた会いたい。
仰向け睡眠、万歳
一日の間に2度もブログ更新すんなよな。Twitterやtumblrじゃあるまいし。ブログ更新が一日に1回でなければいけないのってなんか決まってるわけじゃないけど、暗黙の了解としてあるの面白い。中学の時に友人は2、3度更新してたけど、今思うとほんとにタブーだったんじゃないかと思う。知ったこっちゃないけど。
まあ、そんなことはさておきだ。
ここ最近、ずっと外に出るのが億劫で、バイト以外に外に出なかった。出ても家の庭くらいだった。バイトだって、行きたいわけじゃない。働くのめんどくさいし。好きで働いているわけじゃない。働くのが好きですなんて根っからの工業用ロボットでも言わないぞ。大体あいつらは何も言わない。
それで、そんなこんなで鬱っぽかった。きっと完全に鬱病ではないけど、このままだとおそらくそうなってしまうなって分かっていた。
これは2018年に入ってからのことで、家にずっといても別に何かをしたわけじゃなく、本当に空白の時間を過ごしていたと思う。何もできない。やろうという意識はあるが動けない。娯楽が娯楽でなくなっていく。YouTubeを見ても、音楽を聴いても何もうれしくなかった。頑張ってないと楽しみが楽しみでなくなる現象、みんなもだらけきった生活がいかに自分のメンタルに悪影響を及ぼすか、身をもって体験してくれ。自分を破滅させない程度に。
なぜだろうって考えた。なぜこんなにもダメになってしまったのだろう。今朝一つ理由が分かった気がする。
最近横向きに眠るのがマイブームで、それが楽な体勢だと思っていた。でもだんだん朝起きれなくなってしまい、布団から出にくくなっていた。でも、気づかなかった。
昨日の夜、仰向けに寝てみた。以前と同じ寝方だ。今朝調べたら仰向けは一番睡眠の質がいいらしい。そのおかげか、朝スッキリ起きれた。仰向けって偉大なのかもしれない。
仰向けで寝るだけなのに、それで今までの鬱々とした気分やらなんやら、全てが解決するなら安いもんだ。仰向け万歳。寝る時はずっと空を見上げていよう。2018年は横向きに寝る年にしたかったが、2017年についで仰向けの年になることが今決定した。
さよならブログ。
2018年になり、本来ならば新しくブログを開設しなければいけないのですが、どうやらこのHatena blogのアカウントは3つまでしかブログを開設できないらしく、新しくアカウントを取得するのもめんどくさいなって思ったので、以前から鬱陶しくなっていたこのブログタイトルを一新することで、2018年のブログ開設ということにしたいと思います。
そもそもですね、なんで年ごとにブログを開設しているのかと読んだ方は思うかもしれないんですけど、聞かないでください。僕にもよく分かりません。そういう気分なんです。継続できる人っているけど、それはそれでいいじゃないですか。僕にはずっと続けることは苦痛なんです。めんどくさいんです。たまにLINE消しちゃう人とか定期的にTwitterのアカウントやり直しちゃう人っているじゃないですか、僕もあんな感じなんですよ。だからそれは置いておいてください。
前まで「雑記。」なんて腐ったタイトルにしてたけど、あれホントクソだなって思ってた。たしかになんでも書いてオッケーのブログにしていたから、名前通りなんだけど、あんなのクソ。クソとかすぐ言っちゃいけないけど、まあいいでしょう。
早くタイトルを変えたかった。それで今回節目ということで、とっとと変えてやった。
いや、僕は別にこういうことを書きたいんじゃない。とにかくまあ2018年だから、ブログを一応一新したってことだけだ。それを書き留めたいだけだった。
イヤホンとレポート
イヤホンを耳にさしても音楽を流さない、という意味の分からないことをたまにする時がある。
決して自覚がない。イヤホンを耳につけるまでは、音楽を聴こうという意思に基づいてそこにたどりつくが、いざイヤホンが耳にささると満足してしまう。
イヤホンが用意した限りの無音状態という風呂に浸かり、そこから何もアクションを起こそうとしないのは、滑稽である。
無音がいいなら耳栓をつければいいじゃないか、という話なんだが、耳栓は完璧に無音空間を作り出してしまうために、私は心底それが嫌いである。
もっとも、耳栓というものに触れたことがない生活だったので、嫌いもへったくれもないのではあるが。
なにか新しいことに挑戦しようと道具をそろえて中途半端な状態で満足、というのは他の人にも結構あり得ることなんじゃないかと思う。
何もしないまま満足、ということは少なそうだ。多分大抵は時間がなかったか、一度挑戦してそこで満足して終わるケースだと思う。
意識的に何もしないことと、何もできないことは全く違う。
言いたい事はなんだ、と思うのであれば、十中八九この時期の大学生なら分かるであろう。レポートをやらねばならないのである。
終わらないものがある中でまた新しく何かを始めるのは可能だが、始まらないことには終わりは存在しないのである。
つまり、レポートを終わらせるためには、始めなきゃならんのである。
論ずるは軽し。取り組め。