さよならブログ。

まだ何もない。

フィクションその1「西暦3208年」

あ、どうも、こんにちは。

あなた見かけない顔ね。もしかして2000年代から来た人?

じゃあちょっとだけこの世界のことを教えてあげるね。

 

ここは西暦3000年とちょっとだけ経った世界。

昔は、やれ地球温暖化がどうのか、だとか、それミサイルがどうだ、とか言ってたみたいだけど、あ、これってあなたのいる時代の話よね。安心してね。今じゃそういうことは歴史の教科書の362ページにちょこっと載ってるくらいだから。

どうやって解決したのかって、それを教えたら歴史が変わっちゃうからダメ。

 

そうそう、西暦3000年ともなるとあなたのいる時代から結構変わっちゃうんだよ。

例えば、世界から海は無くなったこととか。

ううん、埋め立てたわけじゃないの。海は建設するものになったの。

うーん、言ってる意味分かんないかな。簡単に説明すると、海は公共施設ってこと。波も海洋生物もみんな国が管理してるの。

あなた口を開けっ放しだけど、驚くのはまだ早いと思うよ。

 

あとはね、人々の関係がお金で管理されるようになったことかな。

えっとね、たとえば友達っているでしょ、あれもお金で買うの。

そう、友情はお金で買えるものになったんだよ。方法はね、まずね、この人と仲良くなりたいなって思う人がいたら、あ、これは友達屋さんでね、カタログを見るの。それで良さそうな人がいたら、店員さんに値段通りのお金を渡すの。

うん、そうだよ、人によっては1億円くらいする人もいるかな。そういう人ってホラ、アレ、その人って有名人だったりするから。

私の値段?自分の値段は分からないよ。だって自分自身だから。

そう。それからね、大抵の人は契約制なの。たとえば、10年プランで20万円だとか。消費税込みだから結構バカにならない値段になるかな。値段の基準ってよく分かんないけど、みんな大体それぐらいだよ。でもやっぱり古人屋さんで、良さそうな人を安く買えた時がいちばん嬉しいかな。もちろん古人屋さんだから、たまにハズレがいるけどね。

 

悲しい世界だって?なんで?友情がお金で保障されてるなんて、いつ絶交したり仲悪くなったりするか分からない昔と違って良いと思うけど。

保証がないから友情って素晴らしいだとか、あなたは変なことを言うのね。私、あなたをカタログで見ても買おうとは思わないかも。じゃあね。

毎日「しんどい」と思っている人たちへ

分かる。しんどいな、毎日。

 

そんなしんどい人たちのために、僕の無い文才を振り絞ってみよう。読み終わった時にため息でもついてみるといい。この文章は、読み終わって気持ちがすぐにスッキリするような特効薬でもないし、飲み続ければじわじわと効いてくる漢方でもない。読んだところで何も変わらない、ただ死ぬまでの時間稼ぎだと思ってくれ。

 

では諸君、しばし時間を拝借。

 

 

 


いきなりだが「くそくらえ」という言葉は汚いが便利だと思う。むかつくことはもちろん、なんでもないことにも「くそくらえ(もしくはむかつく)」って頭の中で唱えてみる。

 

インターンシップなんてくそくらえだ。授業なんてくそくらえだ。学校も、社会も、電車も、人間関係も、恋愛もくそくらえだ。星が今日はあんまり見えないからむかつく。半袖だと帰り道は寒いからむかつく。新しい服を買わなくちゃいけないからむかつく。いっぱい歩いて足が臭いからむかつく。意味もなくあらゆるものに罵倒して気が済んだら、そこからは好きにすればいい。ただ、あんまりむかつくばっかり言ってると本当にむかついてくるかもしれないし、くそくらえが口癖になるかもしれないので、それは気をつける。

 

 

 

この世の9割は「なんとなく」で出来ている気がするし、きっとそういうことにしとけば楽なんだろう。

 

なんとなく宇宙があったんだろうし、なんとなく1日は24時間になった。なんとなく電車がやって来て、なんとなく学校に行っている。なんとなく授業を受けて、なんとなく眠たくてなんとなくめんどくさいなんて思う。友達と喋って笑う理由もなんとなくだし、好きな人ができるのもなんとなくだ。つらいのもしんどいのもなんとなくだ。

 

毎日生きることに明確な理由が必要だろうか。理由があることは素晴らしいと思うが、理由がないことが否定されてはいけないと思う。なんとなくでいい。今日はしんどいなぁって思うのもなんとなくだし、何がいけないとかそういうことがはっきり分かっているなら、そこまでしんどい思いをすることもないだろう。理由が分かっていても解決できないのもなんとなくってことにしよう。

 

 

 

考えることは面倒くさい。毎日生きる理由は特になくてもいいはずだ。アフリカのサバンナのライオンに誰か明日の予定を聞いてみればいい。アフリカに知り合いでもいれば、聞いておくけどあいにく一人もいないもんでね。アフリカまでの往復の費用は負担しないし、実際予定があろうがなかろうが話の通じる相手ではないと思う。

 

 

自己啓発本を読んで感化されるのは人の勝手だが、他人に生き方を押し付けられる筋合いはないと思う。この世は必然か偶然か、ってことをずっと考えているなら、まあ落ち着いてドーナツを食べよう。どちらにしても、今友達としていてくれている人が自分の友達なんだから。先のことを考えても、どうしようもないことはどうしようもない。

 

 

 

 

ここまでで気づいたと思うけど、オチも用意していないし、これを読んで得られることも何もない。期待していたなら残念でした。僕も自分が何を書いているのか、全く分かりません。

 

 

ちょっとここらへんでゆっくり深呼吸してみなよ。案外、深呼吸って大事なのに、誰一人日々実践しているように思えないからね。どう?気分マシになった?

 

 

しんどいのは変わらないだろう。死にたい気持ちもめんどくさい気持ちも解決しなかっただろう。前置きにあるとおり、文字の羅列だから。

 

時間の無駄遣い。読んでから「なんだこれ、本当に無駄な時間過ごしたな、最悪」って人がいるかと思うけど、安心してくれ。僕もこれを書く時間をもっと別のことに費やせばよかったと思った。

 

 

 

何も起こらなかったけど、えーっと、まあそんなわけで、明日も何かしら頑張らなくちゃいけないし、じゃあね、とりあえずバイバイ。またあした。

誕生日にお葬式をするということ

20歳になった記念に新しいブログをまた始めました。

これまでも色々なものに文章を投稿していたけど全部放置してきた。いや、放置じゃない。感覚で言うとクローゼットの中にしまった感じ。いつかまた使うつもりにして、この広いネット上のあちこちに僕の断片が散らばってる。

 

 

20歳になったことで改めて「大人」というものを意識してみた。オーソドックスな質問「大人とは?」ってやつとかあるけど、あんなの答えが一つじゃないから考えなくていい。口から出まかせ言っときゃなんとかなるよね。

 

思ったんだけどさ、一人の人間の生きる期間を100年としたらさ、僕ら大体5分の1も終わらせちゃったよ、どうするこれから。残されたのが長くてせいぜい80年。100年も生きるなんて上出来だから来年死んでるかもしれないし、そういうのって分かんないから毎日とりあえずじゃなくてちゃんと生きなきゃいけない。

 

20年生きて形だけの大人になって、頭の隅に浮かぶのは大人になれなかった友達のことだ。彼らは19歳とかそれぐらいでこの世を去った。考えてみろよ、大人になれずに死ぬとかかわいそうじゃない?とは言えない。死んだ人のことをずっと考える余裕なんてない僕にはそういうことはどうでもいい。でも、ただ「あぁ、あいつらは大人になれなかったんだな」とだけ感じる。

 

 

 

数日前のことだけど去年の12月31日に親戚のおばちゃんが死んだ。30日にお見舞いに行ったばっかりだったけど、なんとなくお見舞いしようと思ったのは何か感じ取っていたのかもしれない。30日に病室で見たおばちゃんは、酸素マスクを顔に、点滴を腕に、センサーのようなものを胸に繋いで、眠っていた。それも苦しそうに。あれら全部取り払ったら死んでしまうのかもしれないなって後から思った。

 

年明け1月早々に僕の誕生日があるけど、その日にちょうどお葬式をした。お葬式はそれほど時間がかからないと思っていたけど、思った以上に一日が潰れてしまった。僕は20歳、つまりハタチという一つの大きな区切りの日を、自分以外の誰かのお葬式にささげたんだ。考えてみりゃ珍しいことだと思う。1年に1回ある誕生日がちょうどお葬式なんて、貴重だと思う。生まれることから死ぬことまでひっくるめて考えることができたんだ。

 

めちゃくちゃ感慨深かった。ここに今日という日に生まれてきた僕がいて、その僕が今日という日に今までの人生を全うした人間を見つめている光景。生と死が繋がる瞬間だと思った。お葬式で念仏が読み上げられたあと、故人との対面とお見送り。棺に入った人を見下ろす僕。僕はこの人の3つの顔を知っている!とそれだけを強く思った。

 

その3つの顔。1つ目は生きていた時の顔。笑顔とか普通の素の顔。2つ目は病室で苦しそうにしている顔。あの時の顔に1つ目の顔の名残はなかった。同じおばちゃんとは思えなかった。例えるならば、怒ってはいないけれど鬼の形相のようだった。あんな顔は初めて見た。3つ目はもちろん死んだ顔だ。棺の中で静かに、どこか自分と同じ人間だったとは感じられない死のオーラをまとった顔。花を添えて見送った。

 

お葬式の場に集まる知らない親族の方が涙目で鼻をすすっているのを見て、僕はなんとなく「泣く資格」について考えた。あの人は泣く資格があるんだな、とかあの人も泣く資格がある人なんだ、とか。

 

 

気づいてしまった。いつからか上手く泣けなくなったことに。あぁ、あいつだ。あいつのあの日以来だ。謝れずに終わったあの日からだ。それから僕は泣く資格がないんだ、多分。

 

 

 

僕の20歳はとても暗い、夜明けもまだ来ぬ真っ暗な始まり方だった。