さよならブログ。

まだ何もない。

誕生日にお葬式をするということ

20歳になった記念に新しいブログをまた始めました。

これまでも色々なものに文章を投稿していたけど全部放置してきた。いや、放置じゃない。感覚で言うとクローゼットの中にしまった感じ。いつかまた使うつもりにして、この広いネット上のあちこちに僕の断片が散らばってる。

 

 

20歳になったことで改めて「大人」というものを意識してみた。オーソドックスな質問「大人とは?」ってやつとかあるけど、あんなの答えが一つじゃないから考えなくていい。口から出まかせ言っときゃなんとかなるよね。

 

思ったんだけどさ、一人の人間の生きる期間を100年としたらさ、僕ら大体5分の1も終わらせちゃったよ、どうするこれから。残されたのが長くてせいぜい80年。100年も生きるなんて上出来だから来年死んでるかもしれないし、そういうのって分かんないから毎日とりあえずじゃなくてちゃんと生きなきゃいけない。

 

20年生きて形だけの大人になって、頭の隅に浮かぶのは大人になれなかった友達のことだ。彼らは19歳とかそれぐらいでこの世を去った。考えてみろよ、大人になれずに死ぬとかかわいそうじゃない?とは言えない。死んだ人のことをずっと考える余裕なんてない僕にはそういうことはどうでもいい。でも、ただ「あぁ、あいつらは大人になれなかったんだな」とだけ感じる。

 

 

 

数日前のことだけど去年の12月31日に親戚のおばちゃんが死んだ。30日にお見舞いに行ったばっかりだったけど、なんとなくお見舞いしようと思ったのは何か感じ取っていたのかもしれない。30日に病室で見たおばちゃんは、酸素マスクを顔に、点滴を腕に、センサーのようなものを胸に繋いで、眠っていた。それも苦しそうに。あれら全部取り払ったら死んでしまうのかもしれないなって後から思った。

 

年明け1月早々に僕の誕生日があるけど、その日にちょうどお葬式をした。お葬式はそれほど時間がかからないと思っていたけど、思った以上に一日が潰れてしまった。僕は20歳、つまりハタチという一つの大きな区切りの日を、自分以外の誰かのお葬式にささげたんだ。考えてみりゃ珍しいことだと思う。1年に1回ある誕生日がちょうどお葬式なんて、貴重だと思う。生まれることから死ぬことまでひっくるめて考えることができたんだ。

 

めちゃくちゃ感慨深かった。ここに今日という日に生まれてきた僕がいて、その僕が今日という日に今までの人生を全うした人間を見つめている光景。生と死が繋がる瞬間だと思った。お葬式で念仏が読み上げられたあと、故人との対面とお見送り。棺に入った人を見下ろす僕。僕はこの人の3つの顔を知っている!とそれだけを強く思った。

 

その3つの顔。1つ目は生きていた時の顔。笑顔とか普通の素の顔。2つ目は病室で苦しそうにしている顔。あの時の顔に1つ目の顔の名残はなかった。同じおばちゃんとは思えなかった。例えるならば、怒ってはいないけれど鬼の形相のようだった。あんな顔は初めて見た。3つ目はもちろん死んだ顔だ。棺の中で静かに、どこか自分と同じ人間だったとは感じられない死のオーラをまとった顔。花を添えて見送った。

 

お葬式の場に集まる知らない親族の方が涙目で鼻をすすっているのを見て、僕はなんとなく「泣く資格」について考えた。あの人は泣く資格があるんだな、とかあの人も泣く資格がある人なんだ、とか。

 

 

気づいてしまった。いつからか上手く泣けなくなったことに。あぁ、あいつだ。あいつのあの日以来だ。謝れずに終わったあの日からだ。それから僕は泣く資格がないんだ、多分。

 

 

 

僕の20歳はとても暗い、夜明けもまだ来ぬ真っ暗な始まり方だった。